May 10, 2011

癌に対してよく行われる免疫療法

免疫療法は、がんの治療によく利用されています。その理由は、がんの治療は、手術、化学療法、放射腺治療が一般的ですが、がんの治療効果よりも副作用を伴うため、患者への治療が苦痛になってしまいます。しかし、免疫療法を実施することで、これらの困難な副作用を減らしてくれるような効果が期待できます。
以前は、がんに言えば、悪いところを切除する方法が重​​要であると述べた。しかし、それだけでは転移の可能性があるため、がん組織を徹底的に潰す必要がある。このため、最近では、放射線治療をする病院が多い。放射線外来には、多くの患者が集まっている。今、がん治療の主流は、放射線治療である。怖がらずに、放射線治療を受けてみよう。
 景気低迷、内需縮小が叫ばれる中、事業継続のために日本企業が海外に打って出て行かねばならないのは自明の理である。とりわけ医薬業界においては、かねてよりグローバル競争の荒波にさらされているのに加えて、主力の医薬品が2010年前後に特許切れして各社が収益源を失うという「2010年問題」の危機に直面しており、海外での利益確保や新興国市場の開拓などが急務といえる。

 そうした中、抗体技術など最先端のバイオテクノロジーを基盤とした医薬事業で世界のトップクラスを目指し、新薬の開発、販売をグローバルで展開するのが協和発酵キリンである。同社は、国内はもとより、米国、ヨーロッパ、アジアに多数の海外拠点を持ち、グループ全体で7000人を超える社員を抱える。そのトップリーダーとして経営のかじ取りをするのが松田譲社長だ。

 研究所の組織改革、予期せぬ異動、経営統合――。松田氏のキャリアを振り返ると、現在に至るまでいくつものターニングポイントがある。そこから学んだ経験を1つ1つ積み重ねてきた結果、松田氏は改めて今、組織におけるリーダーシップの重要性を強く感じている。では、いかにして松田氏のリーダーシップは確立されていったのだろうか。

●研究所にそびえ立つ悪しき壁

 新潟で生まれ育った松田氏は、勉強はそっちのけで毎日のように野山を駆け巡るといった幼少時代を過ごす。特に「今ではまったく興味が湧かないほど飽きるまで打ち込んだ」と語るほど、魚釣りや虫取りにすべてを捧げていたという。

 高校卒業後は地元の新潟大学農学部に入学、その後、さらに研究の道を追求するために東京大学大学院に進む。そこで身に付けた専門性を武器に、1977年、協和発酵工業に入社する。配属されたのは東京・町田市にある東京研究所(現・東京リサーチパーク)。ここで松田氏は人生で初めて「リーダーシップ」に対する憧れの念を抱くようになる。

 当時の東京研究所では、個人の着想を非常に重視しており、メンバーの研究テーマから予算、人事権まですべてを主任研究員が握っていた。こうした組織体制が後に松田氏にとって大きな障壁となるわけだが、入社間もない新人にとって主任研究員はメンバーの研究生活すべてに対して責任を負うような存在であり、「いつか自分もあのような立場で仕事がしたい」と、リーダーシップへの強い意識を持った。

 ところが数年後、松田氏は「組織の壁」が研究の発展を妨げていることに気が付く。それを象徴する1つのエピソードがある。松田氏は微生物から新薬のタネを探し出す研究に従事しており、ある時、抗がん剤開発において有効となる成分を発見する。それを関連する社内の医薬研究所に持っていき評価を依頼したものの、いつまで経っても返事が来ない。そこで松田氏が直接研究所に赴くと、驚いたことに研究所の一方的な判断で手付かずのまま冷蔵庫に放置されていたのである。

 当時の協和発酵は、研究室と研究室、研究所と研究所、そして各事業拠点と本社それぞれの間には大きな壁がそびえ立っていた。研究員同士の連携やコミュニケーションは希薄で、社内で研究成果をフォローする組織体制もなかった。「こんなことをしていたら、絶対に新しい薬など生まれない」と松田氏は痛感する。

「医薬事業全体において、研究はごく初期のプロセスに過ぎない。その後、動物実験による開発・改良、人体への効果と安全性の検証など医薬の完成にはさまざまな手順を踏む。さらに、医薬は単に店頭に並べれば売れるというものではなく、国の規制もあるため、専門性を持った医薬情報担当者(MR)によるサポート体制が不可欠だ。このように組織を挙げて取り組むべき事業なのに、研究部門が個人の着想に固執していては、医薬は前進しない」(松田氏)

 医薬事業を展開する上では、どのような組織が望ましいのか。スポーツに例え、「サッカーやラグビー型のチーム組織」と松田氏は述べる。リーダーとなるべき司令塔を据えるとともに、あらゆるメンバーが知恵を出し合って素早くゴールに到達できるような組織、スタイルが医薬事業においては重要だという。

 さらに松田氏は、医薬事業におけるメンバーの理想的な行動に関して、「いわしの群れのような動き」とも表現する。しかしながら、当時の研究所では、メンバーの動きに一体感がなく、魚がばらばらに飛び散るように動いていたため、松田氏は「いくら時間やお金をかけても効率的な医薬開発、研究などできない」と強く実感する。

●命令で人は動かせない

 そうした思いを胸に秘めていた松田氏に大きな転機が訪れる。2000年に医薬総合研究所の所長に抜擢されるや否や、これまで組織が抱えていた問題の膿みを一気に吐き出させるかのように、松田氏は次々と組織改革を断行していく。

 具体的には、数十名の研究員に対して研究テーマの変更を言い渡すとともに、研究員の部署異動を積極的に行い、組織における人員の流動性を活発にした。組織の壁を壊して、これまでばらばらに動いていた研究員同士を交流させ、部門をまたいで業務に当たらせるような組織を目指したのである。

 長年1つの研究に従事してきた研究員にとって、研究テーマや担当部門を自らの意思に反して変えられることはこの上ない痛みであり、当然のように研究所の中で大きな反発を招いた。「こうしたときこそ、リーダーはじっくり丁寧にメンバーと向き合わなければならない」――。反発する研究員たちに対して、松田氏は時間をかけて徹底的に話し合った。

「立場だけの命令では、人は絶対に納得して動かない。例えば、研究テーマを変更するのであれば、その理由と必要性、さらにはその先にあるビジョンを明確に示して、後は当事者と根を詰めて話し合うしかない」(松田氏)

 ただし、話し合うといっても、上から一方的にまくしたててしまうのは逆効果だ。松田氏は、現状認識と目指すべきゴールの2点しか話さず、それ以外は研究員たちの言い分などをとにかく親身になって、すべて聞いてやろうという姿勢を貫いた。その中でお互いの価値観やビジョンを共有していったのである。各メンバーとの話し合いのために注いだ時間は、1人当たり10時間以上。さらに多くの時間を割いた研究員もいる。彼らが納得するまで、毎日2時間でも3時間でもとことん時間をかけた。

「研究員たちは自身の研究に誇りを持っている。専門性を生かして数多くの業績も上げてきた。彼らのそうしたバックグランドをきちんと理解するためには、10分や20分の話し合いなどではとても足りない」(松田氏)

 丁寧に、時間をかければかけるほど、非常に力強い組織が生まれると松田氏は語る。それが組織改革のコツだ。研究所長という立場を利用し「会社の方針だから、こうしろ、ああしろ」と言うのは、決してリーダーシップとは呼べないという。

●築き上げたキャリアを捨て去る

 研究所長として組織改革の旗を振るとともに、一人の研究者として充実した日々を送っていた松田氏に、2002年、青天の霹靂ともいえる辞令が下る。総合企画室への異動である。入社以来、54歳まで研究者一筋で、「研究所長としてサラリーマン人生を終えるのが最も好ましい」と考えていた松田氏は、この異動に大きなショックを受ける。

 しかしほどなくして、総合企画室が会社全体の司令塔であり、会社の経営課題についてリーダーシップを発揮する場所であることに気付く。「中途半端な姿勢では駄目だ、使命感を持って臨まねばならない」――。松田氏は、研究者としての実績や成果など自らの過去をすべて断ち切るべく、いざ異動で研究所長室を出る際に、長年ぼろぼろになるまで読み込んだ専門書や学術書をすべて段ボール箱に詰め込んで焼却した。

 「自分自身にけじめがついていなければ誰もついてこない。研究者としてのキャリアは捨てたという思いで異動した」と松田氏は振り返る。実際に、今では人から尋ねられても研究者時代の実績などを口にすることはほとんどないという。

 松田氏のこのような力強い意思決定の背景には、これまでの経験に基づく、あるいはさまざまな人々と接する中で確立したリーダーシップに対する考え方がある。その1つが「身のこなし方」である。リーダーシップとは、組織の上に立つ人がどういう行動をするか、いかなる身のこなし方をするかに大きく依存するという。

「毎日言うことが変わるとか、言うこととやることが違うような軸足のふらついたリーダーは誰も信用しない。周囲の上司や先輩などを見て素晴らしいリーダーシップを発揮しているなと感じる人の多くは、軸がぶれず、自分に対して厳しく、覚悟を持って仕事に臨んでいるような身のこなし方をするものだ」(松田氏)

 このことが、経営を担うリーダーとして松田氏が躊躇なく過去と決別できた大きな要因である。

 なお、松田氏が理想とするリーダー像は、土光敏夫、石田礼助、石坂泰三といった明治生まれの名だたる経営者である。「彼らは決して軸足がぶれなかったし、強い信念を貫いていた。非の打ち所がない、まさに私の理想とする身のこなし方だった」と松田氏は力を込める。

●何よりも社員の意思を尊重

 総合企画室に異動した翌年、松田氏は協和発酵の社長に就任する。その後、キリンファーマーとの経営統合を経て、2008年には協和発酵キリン社長の座に就く。

 企業合併に際しては、異なる歴史や文化を持つ両社の社員の心を1つにするために、新会社の理念やビジョンについて社員自らが話し合える場を作った。結果的に、1000人を超える社員が自発的に参加した。そうして生まれたのが「「私たちの志」という同社の核となる理念である。「私たちの志」は、多くの社員から喝采を浴び、両社融合の要となった。社員一人一人の意思を尊重したプロセス作りが可能となったのも「とことん社員と向き合う」という松田氏ならではの行動指針によるところが大きい。

 融合や交わりという点においては、経営者としての松田氏の信条にも由来する。組織を作る際、あえて身の回りに自分と異なる考えを持つ人や反抗的な人などを配置した。異質なものを混ぜることが重要だと松田氏は考えるのである。植物の世界においては、1種類の木だけを植えて作った森よりも、いろいろな木々が混植している森の方が強くたくましくなるのだが、企業の組織においても同じだと松田氏は強調する。また、自分に対峙する人物を置くことで、社長が“裸の王様”になって会社全体が間違った方向へ進むような事態を防ぐことができるという。

 経営のかじ取りをする上で、人事の公平性も信条に掲げている。例えば、ある社員が昇格したときに「社長の部下だったから昇進した」などという風聞が出てこないように、松田氏は同期やかつての部下、同じチームで仕事をした社員とは一切飲食を共にしない。その徹底ぶりは目を見張るものがある。

「人事に限らずあらゆる物事において公私の区別をつける。すべての身のこなし方がそこに基づいてないと、絶対的なリーダーシップは築けない」(松田氏)

●若者よ、外へ出ろ

 研究者から経営者に転じ、今なおリーダーとして第一線で奮闘する松田氏。氏がこれまで歩んできた道のり、そこで取ってきた行動は、企業におけるリーダーシップを考える上でさまざまな要素が詰まっている。

 しかし、企業を取り巻くビジネス環境は目まぐるしく変化しており、これまで培った経験やノウハウが未来永劫、引き続き通用するとは限らない。人々の価値観も大きく変わっている。今後、企業では時代を切り開く新しいリーダーが求められてくる。

 次世代リーダーの条件について、松田氏は「グローバル人材」であることを挙げる。松田氏の言うグローバル人材とは、多様性を受け入れるということ、すなわちダイバーシティの考えを持つとともに、どんな苦境にも耐えられる、打たれ強い人材を指す。そのためには、積極的に海外に出てさまざまな経験を積むことが何よりも重要だという。

「若者にはもっと海外に目を向けてもらいたい」。松田氏は次の時代を担うリーダーに対して力強いエールを送った。【伏見学,ITmedia】
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