Feb 20, 2011
外壁塗装家を更新
私の実家は築20年ほどの一戸建て住宅です。昔のアルバムを表示実家は真っ白な壁に、非常に清潔感のある感じでした。でも今は風雨にさらされ続けて壁に黒くみすぼらしい風貌に。これで変えて時期かもしれない。することで、業者に依頼して外壁に塗装してくださったのですが、かなりの新築時に近いきれいにされて大満足でした。そして、最近、外壁塗装は建物を美しく維持するだけでなく、様々な機能も付いています。たとえば、防水機能とセルフクリーニング、防カビ効果など。これからもっと築年数が増加行けば10年に一回程度は清掃あればいいなと思いました。自分の一生をかけて作り出すの住宅では希望の家づくりをしたいものです。自分の心の中で家を作るために、注文住宅しかありません。一生住み続ける家であるための条件を持って時間をかけて作りたいと思います。そのためには家づくりの知識が必要です。デザインは、素材は実に難しいことだけ。注文住宅は、信頼性の公務を見つけることが先決です。
相場英雄の時事日想:
東日本大震災の発生から3カ月が経過した。大地震、大津波に加えて福島第1原発事故が発生。福島県浜通り地方の住民は三重の苦しみの中にいる。住み慣れた土地、家族や友人と別れて県内、県外で意図せざる避難生活を強いられる向きも少なくない。震災後いち早く南相馬市の人たちを受け入れた自治体の1つに、新潟県の中央に位置する三条市がある。なぜ受け入れを決めたのか。國定勇人(くにさだ・いさと)市長に話を聞いた。
【新潟県三条市を地図で確認】
三条市は筆者の出身地でもあり、2004年7月13日に発生した大洪水で甚大な被害を受けた経緯がある。被災経験を持つ市長や市民が、今般の震災被害者にどのような形で手を差し伸べたのか。
●最初の1カ月間で腐心したこと
――南相馬の皆さんと接する上で心がけていることは?
最初の1カ月間で腐心したのは、3月11日のことは絶対に聞かないということだった。また、できる限り、彼らに頭を下げさせないということに気を遣った。本来ならば、避難された皆さんは我々に気を遣う必要などないからだ。
彼らから頭を下げられそうになる前に、避難所生活や震災とは一切関係のない話題に触れ、こちらから話し掛けるようにしている。同じ目線で彼らもモノを言える環境を作ることが大事だと考えた。
ただ、反省点もある。同じ目線を心がけていても、どうしても被災された方々にしか分からないことがある。例えば、避難所を出て、市内の公営住宅や民間の賃貸に移られる方々からこんなことを聞いた。
引っ越しに際し、彼らは暦の「大安」にこだわった。こちらとしてはいち早く移動してもらいたいと考えたが、彼らから返ってきた答えは違った。
震災以降、自分の意図しない事柄に振り回されてきたため、避難所からの引っ越しについては自分の意志で、自分のタイミングで行いたいという強い希望があった。その結果が「大安」だったわけだ。同じ目線と言っても、被災者の心中を完全に察することができなかった。
●三条市民の反応
――三条市民の反応は?
ひと言で言えば、すさまじかった。市として迎え入れに躊躇しなかった要因の1つに、7・13を経験した三条市民の存在がある。市民は、自分のことのように南相馬の皆さんのことを気遣ってくれると確信していた。
例えばボランティアを募集すると、1日で700人集まったこともある。信じられないことが起きた。相場さんが三条出身であれば理解してもらえると思うが、三条気質としては、自分の利益を追求し、社会全体の調和に対してはナナメ横からの目線が多い。元来そういった市民性が根強いにも関わらず、今回は市民が素早い反応をみせてくれた。
水害からの6年半、市民も全国の皆さんから支えられて今の状況にようやくたどり着けたという気持ちが強い。被災経験を持つ市民だからこそ、真っ先に手伝いにかけつけてくれたのだと思う。
言葉は悪いが、頭で考えるよりも先に、体が動いたというのが正直な感想だ。そういう市民の気持ちが、浜通りの皆さんに敏感に伝わったと思う。
避難された皆さんの心理的な状況は、他の市町村に避難された方々よりも落ち着いていたのではと思っている。行政が一生懸命やったわけではなく、三条市民が避難された方々と同じ目線で接することができる、痛みを本当の意味で分かち合っているという証左ではないだろうか。
●「7・13洪水」支援への恩返
――南相馬市の皆さんを受け入れるきっかけは?
大震災発生後の3月16日あたりで、福島県から新潟県に自主避難されてきた皆さんが増え始めた。その数がさらに増加するのは必至だった。我々としては、「7・13」※で全国から支援を受けた経験があるため、これはご恩返しをする良い機会だと思った。
※筆者注:2004年7月13日、新潟県中越地区で発生した大規模な集中豪雨により、河川の堤防が決壊。三条市は死者9人、重傷者1人、被害棟数1万935、被害世帯7511の甚大な被害を受けた。
16日朝、避難所を4つ開設しようと準備を進めていた段階で、「南相馬からの避難者300人を今日中に受け入れられないか」と新潟県から電話が入った。
当時、消防を緊急派遣していた宮城県石巻市から集団で被災者の受け入れを検討していたが、県からの要請はなにかのご縁だと考え、石巻からの皆さんがおいでになっても大丈夫な形を作った上で、南相馬からの300人をその日のうちに受け入れることを決めた。
そもそものきっかけは、震災発生後に窮状を訴えた南相馬の桜井勝延(さくらい・かつのぶ)市長を知った泉田裕彦(いずみだ・ひろひこ)新潟県知事の行動だ。知事が桜井市長に直接電話で支援を申し入れたことから全てが始まった。
行政の手続きを考えれば、泉田知事の行動は突飛だったかもしれない。しかし、非常時にいちいち手続きを気にしていたら、電話などそもそもかけられない。筋論で言えば、桜井市長ではなく、福島県知事を通すことが望ましかったかもしれない。しかし、泉田知事の行動に反論など出なかった。近年、新潟県は2度の大地震を経験した。被災した県同士、当たり前だという感覚を知事がお持ちだったのではないか。
●前例がない事案
――今回の事案は前例がないはず。どのように動いたのか?
人間にサービスするのが行政であり、人間とおつき合いするのも行政だと常々考えている。大震災に接し、我々のように被災していない立場としてなにができるのかと言えば、困ったときはお互いさま、ということだ。
大洪水を経験していたからこそ、支援するという行為のハードルをもう少し低くすることができるのではないかと考えた。
県や国にうかがいを立てるということではなく、「ご恩返し」と「困ったときはお互いさま」を愚直に、迅速に実践するしかないと思った。
市長としての考えを庁議にかけたが、全く反論がなかった。「7・13」をほぼ全ての職員が経験したので、「当たり前」という雰囲気だった。
たった1日で避難所を設営できたことをほめられる機会があるが、自分たちは過去に避難所運営を経験した。加えて、中越大震災を経てそのたびに避難所運営のお手伝いに出た。避難所の設営・運営に対する躊躇(ちゅうちょ)がないし、垣根が低い。「住民票の写しをください」と同程度の感覚、ハードルの低さだ。
●「お役所仕事」という言葉
「お役所仕事」という言葉がある。今さら説明する必要はないだろうが、杓子定規で、融通がきかないという意味だ。長年、中央の経済官庁の取材を経験した筆者にとって、「お役所仕事」という言葉は、保身、縄張り、足の引っ張り合いなど、ネガティブなイメージしかなかった。
今回、郷里の街を取材し、お役所仕事という言葉が持つネガティブなイメージが変わった。日頃、市民と直に接している行政体だけに、災害発生時のような非常事態ではお役所仕事は命を守る役割を担うのだ。
次回は、國定市長が抱く震災や国会、東電への率直な思いを聞く。
【相場英雄,Business Media 誠】
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